それは逆の真理、文学や芸術やファッションや思想やあらゆる娯楽が欠けた場所では、パンと水さえ人を幸せな気持ちにすることができない、ということからもわかります。
| — | Narrenschiff:追悼 吉本隆明 (via dannnao) |
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これ、見つけた人すごい。
五芒星の頂点がちゃんと意味のある場所になってるのと、五芒星の頂点だけじゃなくて、出雲大社と富士山をからめてるところとか、五芒星の中心が平城京だったり、五芒星の交点の位置に平安京がきたりするところも、オカルト的にポイント高い。出雲大社、B、C、富士山(からちょっと北にずれたところ)がほぼ直線で並んでるあたりにちょっと感動。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(英:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
などの形でも問われる。
物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる[1]。解答することが著しく困難であることから「存在の謎」(The riddle of existence)とも言われる[2]。哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、また問うことが危険な問いである[3][4]、などとも言われる。
存在論のテーマは突き詰めると「何が在るか」と「なぜ在るか」の二つに問いに収束していくと言われるが、この問いはこうした場合における「なぜ在るか」にあたる問いである[5]。
この問いの前提である「何かがある」ことを否定することで問いから逃れることはおよそ困難である。たとえば実在するものはすべて意識的なものだけであるとする観念論的な立場や、または世界は私の見ている夢のようなものであるとする独我論的な立場などを取ってみても、その意識や夢にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ない。映画「マトリックス」のように自分は水槽の中の脳である、とか、またこの世界の全ては未来のスーパーコンピューターの中で行われているシミュレーション結果に過ぎないというシミュレーション仮説のような極端な考え方をしてみても、やはり「何もない」と主張することは難しい。「何が在るのか」という点については色々な答え方が可能とはいえ、「まったく何もない」と主張してこの問いを却下することまず困難であろう。
次に、物理学の領域ではビッグバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明もまた答えとはならない。なぜなら問いの形が「なぜ何もなかったのでなく、ビッグバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。ビッグバンが真空の量子揺らぎから発生したといった説明もまた同様である。「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐような真空があったのか」、こうした形に問いが置き換わるだけである。同じように何か超越的な存在、たとえば神様を持ち出し、それが世界を作った、と説明しても話は同じである。「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」、こう問いが置き換わる。こうした例を見てわかるように、この問いは因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしても、もっと過去へ、もっと過去へと無限後退が生じるだけでそこから答えは得られることはないだろうと考えられている。
またこうした時間の始まりの問題を避けるために永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解決は得られない。「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」、こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。
この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である。またしばしば同時に扱われる関連した問い「なぜ世界はこのようになっているのか」というこの世界のあり方の根拠を問う問題とも区別される。
| — | なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia (via petapeta) |